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歴史研究の日々のよしなしごとについて

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歴史学の危機

最近、このことが頭について離れない。

直接には某所で聞いた話がきっかけだが、もちろんそれ以前から度々話題にはされてきたことである。

たとえば、世界史未履修問題。

たとえば、日本史必修化問題。

世界史未履修問題については、その発覚から事態収拾に至るまでの対応の姑息さがとりわけ印象に残った。
もちろん、この件に関しては実際に振り回された生徒たちが一番の被害者である。
しかし、救済措置と称して不十分な学習時間で「履修したことにした」結果、高校教育に対する不信を募らせるとともに、世界史という科目そのものの必要性に対しても一層の疑問符がつけられることとなってしまった(この天については他の未履修科目も同様だが)。

なぜ世界史は敬遠されるのだろうか?…教師たちからも、そして生徒たちからも。

世界史なんていらない? (岩波ブックレット NO. 714)世界史なんていらない? (岩波ブックレット NO. 714)
(2007/12)
南塚 信吾

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 はじめに
 Ⅰ 世界史はなぜ嫌われる?
  1 世界史の教育が抱える問題とは
   [コラム]中学校、高等学校での世界史の学ばれ方(澤野理)
  2 世界史の研究が抱える問題とは
 Ⅱ 世界史はなぜ必要か
  1 日本に生きるものにとって世界史はなぜ必要か
  2 世界史教育はなぜ必要か
   [コラム]こんな授業をやってみた(平井英徳)
 Ⅲ 世界史を構想するヒント
   (1)広島・長崎 (2)川上音二郎・貞奴一座 (3)日清・日露戦争の時代 (4)1980年代の世界 (5)義賊
 おわりに―歴史研究の課題と教育

なお、本書の著者の南塚氏は世界史研究所の所長でもある。

詳細については安価な小冊子であるし、実際に各自御一読いただきたいが、とりわけ上掲の疑問についての回答をやや乱暴にまとめると、次のようになるだろうか。

1)実際に学ぶにあたって世界史はとっつきにくい。
2)実生活で世界史の必要性を感じる機会が少ない。
3)従って、生徒にとって世界史を学ぶのも、教師にとって世界史を教えるのも、かなり大変である。

もちろん、ちょっと学ぶにはとっつきにくいからこそわざわざ学校で学ぶ意義があるとも言えるし、世界史の必要性を「感じる機会が少ない」のは感受性やものの見方を豊かにすれば変わってくるとも言える。
教えるのが大変(逆に生徒側から見れば、学ぶのが大変)というのはなかなか容易には解決しがたい。
しかしこれについても、意欲的な教師や歴史学研究者たちは既に様々な取り組みを続けており(本書や大阪大学歴史教育研究会も含めて)、相互の連携体制を整えれば次第に改善されていくだろう。

ただ、そのような試みに費やすことのできる時間は、それほど多くはないかも知れない。
それが、日本史必修化問題の深刻なところである。

例えば、「高等学校における日本史の必修化に関する意見書の提出について|東京都」では、意見書の概要を次のようにまとめている。

(1)国際化の進展の中で、東京都教育委員会は、教育目標で、教育は国際社会に生きる日本人の育成を期して行われなければならないことを示している。
(2)国際社会に生きる日本人としてのアイデンティティをはぐくむためには、日本史を学習することが重要である。
(3)現在、小・中学校までは、すべての児童・生徒が日本史を学んでいるが、国際社会に生きる日本人としてのアイデンティティを一層はぐくむためには、小学校・中学校・高等学校の発達段階に即して、わが国の歴史を継続して学ばせることが重要である。
(4)高等学校学習指導要領の次期改訂に当たり、日本史を必履修科目とすることを検討いただきたい。なお、その際、現在、小・中学校で学習している社会科の歴史の内容についても併せて検討いただきたい。


ここでは日本史必修化の目的を「国際社会に生きる日本人としてのアイデンティティを一層はぐくむため」としている。
「一層」とある通り、小・中学校では既に日本史を学んでいる生徒たちに、さらに高等学校でも日本史を必修科目として教えるべし、というのがここでの趣旨である。
しかし、ただでさえ履修すべき内容が多すぎて未履修問題が起きるような現状の高等学校に、さらに必修科目を増やす余地はあるのだろうか?
このような無理を押し通そうとすれば、恐らくは必然的に、世界史の選択科目化(つまりは「教えなくてもいい科目」への格下げ)とセットにならざるを得ないだろう。

ただでさえ、以前に比べて子供たちにとっての世界史を学ぶ機会は減る一方である。
本書を読んで私がまず驚いたのは、澤野先生のコラムにもあるように中学校の歴史分野における世界史的内容が大幅に削減されているという事実であった。
言うまでもないことだが、アイデンティティというのは、常に文脈依存的である。
「国際社会に生きる日本人としてのアイデンティティ」をはぐくむためには、その「日本人としてのアイデンティティ」を規定するところの「国際社会」の文脈に対する理解が不可欠である。
日本史を学ぶのはもちろん結構だが、「国際社会に生きる」という前提を確保するためにはそれだけでは足りない。
全く足りない。
概要であるにもかかわらずこのフレーズが三度も登場していることからして、「国際社会に生きる」ことの重要性は十二分に認知されているようだが、ではなぜそこから出る結論が国際社会の文脈を学ぶ機会を奪う方向に行ってしまうのか?
論理的には、到底理解し難い内容と言わざるを得ない。

で、このような高等学校のカリキュラムの問題がどうして「歴史学の危機」なのか?
もしかしたら、以上のような流れを横目に心の中で喜んでいる日本史研究者もいるかも知れない。
高等学校までに関連する科目が設置されていない学問分野の研究者にしてみたら、その程度のことで何が「危機」だと思うかも知れない。
だが、このような論理的に到底理解し難い理由で「改革」が行われ、それが「国民的合意」を得てしまうかも知れないという状況は、歴史学の社会における存在価値を否応なく毀損するものである。
「国際社会に生きる」と繰り返しながら、だから世界史より日本史をというような主張を耳にすれば、大抵の高校生は(その賛否はともかく)話がおかしいと思うだろう。
そのような話が政治的に押し通されるとすれば、それは日本社会における歴史学の存在価値がその程度の軽いものであったという、何よりの証明になってしまう。
日本史研究者だからといって他人事ではないし、もちろん学校教育の問題にとどまるものでもないのである。

高等学校のカリキュラムの問題に限定して言えば、やはり小学校から大学までのカリキュラムを通じて、特定の教科・科目に偏ることなく全体として論じる必要があるだろう。
小・中学校で重ねて日本史を学び、それで日本人としてのアイデンティティがまだ足りないというのであれば、高等学校で再度日本史を必修にしても状況はあまり変わらないように思われる。
いずれにしても、上掲のような意見書を受けて場当たり的にカリキュラムをいじるのだけはやめるべきである。

ただ、事の本質はもちろんそのようなカリキュラムを巡る政治的な駆け引きにあるのではない。
つまりは、「日本社会における歴史学の存在価値」について、どのようにして社会的合意を得るかが肝要である。
「歴史学の存在価値」そのものについては言うまでもなくこれまで数多くの歴史学研究者が論じてきたし、上掲書でも「Ⅱ 世界史はなぜ必要か」でかみくだいて解説されている。
しかし、残念ながら少なくとも現在の日本社会においては、その存在価値は十分に社会的合意を得ていない(だから、「アイデンティティをはぐくむ」という、ただそれだけの理由で科目の改廃が議論されてしまうのである)。
歴史学の存在価値についてどのように、全体のバランスの中で適切な形での社会的合意を形成することができるのか。
そのためにはもちろん歴史学研究者や教師たちが連携して情報発信を行うことだが、それだけにとどまらず社会の側の要請を敏感にキャッチして史実を発掘し、様々な角度からの検討を行い、書籍や授業・教材などの形で供給することが必要である。
また、歴史学研究者・教師・生徒・その他一般の人たちができるだけフラットな形で話し合える場も必要だろう(こういう時、大学にも本当の意味での世界史の専門家がいないということは、逆に強みになるかもしれない)。
いずれにせよ、将来日本社会において歴史学研究者が「歴史学研究者として」生き残れるかどうかは、結局はこの一点にかかっていると言っていい。

正直なところ、落着点まではなかなか見通せない。
けれども、「危機」をチャンスに変えることは十分に可能だと思う。
この問題については今後も引き続き考えていくつもりである。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

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